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肉筆画3点は世界一!!
江戸時代の浮世絵師・喜多川歌麿は当時、栃木市内の豪商宅に何度か滞在し、多くの作品を残しました。文献などで肉筆画10点余が紹介されていますが、栃木市が所有するのは、2007年に確認された肉筆画「女達磨図」と、10年にアートなまちづくり研究会の見つけた「鍾馗図」と「三福神の相撲図」の計3点です。肉筆画を3点も所有するのは、世界で栃木市以外ありません。
歌麿と関係が深く、滞在先とされているのが、善野家です。善野家は三家あり、屋号で「釜喜」「釜佐」「釜伊」の三つの家を指します。善野家は近江商人で、江戸時代に同市に来たとされています。同市内に現在、「釜喜」「釜伊」の面影はありませんが、「釜佐」は質屋業などを営んでいます。
三家のうち特に、本家の「釜喜」と「釜伊」と歌麿との関連が指摘されています。釜喜四代目の善野喜兵衛(狂歌名・通用亭徳成) が歌麿(狂歌名・筆綾丸)と特に親交が深く、何度か通用亭を頼って栃木市に来たとされています。歌麿肉筆画の「巴波川くい打ちの図」(所在不明)やボストン美術館所蔵の「三味線を弾く美人」に通用亭の狂歌などが入っています。
一方、「釜伊」、善野伊兵衛との関係では、釜伊の依頼で大作肉筆画「雪月花」(三幅対) を作成したと伝えられています。
□喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ) □
葛飾北斎・歌川広重と並び世界的に知られる江戸時代の浮世絵師。生年、出生地は不明で、1806(文化(3))年に50 歳代で亡くなったとされています。幼名は勇助。20 歳代前半、北川豊章の名で浮世絵界にデビューし、後に、喜多川歌麿に改名し、活躍しました。版元の蔦屋重三郎と組んで、1791(寛政(3)年、)画面いっぱいに女性の上半身を描写した「美人大首絵」を発表、女性美の追求に力を注ぎました。
大作「雪」や「くい打ち図」…まだ眠る!! !!とちぎの肉筆画
歌麿は栃木市滞在中、大作「雪月花」の制作に精魂を傾ける傍ら、地元の人々の求めに応じ、これまで同市内で発見された「女達磨図」や「鍾馗図」「三福神の相撲図」など多数の作品を残しました。
主な幻の肉筆画を紹介します。
大作「雪」
世紀の大作「雪月花」は1887(明治20)年までには、栃木市内からフランスに流出しています。現在、「月」と「花」はアメリカの美術館にありますが、「雪」(縦158センチ×横346センチ)は所在不明。1948(昭和23)年4~5月、旧松坂屋銀座店の「第二回浮世絵名作展」で展示されて以降、公になっていません。
栃木市に残るゆかりの資料としては、「雪月花」が1879(明治12)年11月、同市旭町の定願寺で展示されたことを示す「展覧書画目録」(岡田記念館蔵)と、同大作が売却された際に撮影されたとみられる「雪」「月」「花」それぞれの写真(小林祥次郎氏所蔵)があります。
「巴波川くい打ちの図」

絹本着色で、大きさは不明。男2人が水辺でくい打ちをしている様子を描いています。「行年四十三歳歌麿筆」と署名されています。「出る杭のうたるる事をさとりなばふらふらもせず後くひもせず」と、釜喜4代目・通用亭の名が記されています。
1970年1月、都内の小田急百貨店で開かれた「万国博開催記念世界の歌麿展」で展示されました。その後、歌麿鑑定の第一人者・浅野秀剛氏(大和文華館館長)が都内の画廊で確認していますが、現在の所在は分かりません。
そのほか美術専門紙「美術日本」2号(1936年)では、「竹の図」「静物」や「等身大の美人数人立ちの襖絵4枚」(火事で焼けたとされる)を紹介。また他の資料などでは、6枚組の「六玉川」、「月」の下絵、歌麿日記などの存在も指摘されています。
歌麿作品に登場する「とちぎの狂歌師」
筆綾丸(ふでのあやまる)という狂歌名を持つ歌麿は、栃木市の狂歌師たちの作品を版画などに取り込んでいます。歌麿の最大の支援者とされる「釜喜」4代目・善野喜兵衛は狂歌名・通用亭徳成。そのほか、住吉浦近、川岸松蔭、川船(川舟)棹長(柏木亭棹長)、駒朝早、酒桶数在(数有)、小袖裾長、九曜星丸、人真似成らの狂歌師が、歌麿作品に登場します。
とちぎの歌麿ミニガイドを見る(PDF)
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